相州鍛治の成り立ち
2019年5月29日深夜のブログで、新藤五国光について書きました。
今日は、相州鍛治の成り立ちについて書きます。
先にも書いたように、相州鍛治とは、現在の神奈川県で起きた刀鍛冶の総称で、新藤五国光・行光・正宗・貞宗・広光・綱広などがいます。
相州鍛治の作風を相州伝と言い、正宗十哲に数えられるような刀工らや、江戸時代になって新刀期の刀工らが相州の作風を真似ます。
例えば備前(現在の岡山県)で作られた相州風の特徴が出た作品や刀工は相伝備前(兼光・長義など)と言います。
相州鍛治の最盛期は鎌倉後期です。
鎌倉時代といえど、源家三代の頃はまだ武士政権の草創期で、前平安時代の踏襲が多かったようです。
すなわち、それは当時の刀剣界にも当てはまります。
鎌倉時代初期の頃は山城や備前の供給を得ており、中期には鎌倉に国綱(山城・粟田口)・備前三郎国宗(備前)・助真(備前・一文字)らが招聘され鎌倉の地で作刀します。
その中で、国綱の粟田口風の上品な作風を踏襲しつつ、修験の凛とした緊張感を持った新たな美的感覚を兼ね備えた新藤五国光が出てきます。
ところで、刀剣界には新藤五国光の親・師匠は誰なのか、という大きな謎がります。
室町期から江戸期にかけて多数書かれた伝書・銘尽によると、備前三郎国宗を師、または親と見る説や、もしくは国綱を親、国宗を師、などがあります。
しかし、国綱が建長頃に鎌倉に在住したとすれば、国光の最も古い年紀が永仁元年であり、50年以上の隔たりがあります。
また、国宗や助真とは作風が異なるため、なかなか新藤五国光の師の系譜を探るのは難しいようです。
なお、国綱・国宗・助真が鎌倉に招聘されて作刀したことは確実であるようです。